第一章 まなざしの縁
Slackの通知音は、もうしばらく鳴っていない。
けれど画面の右上に、小さな赤い点がひとつ灯っている。数字は「3」。
湊(みなと)はタッチパッドに手を乗せるが、すぐにやめて、椅子の背にもたれた。
蛍光灯の白い光が、MacBookの金属面を静かに照らしている。
キーボードに乗せたままの手が、わずかに汗ばんでいた。
部屋の空気がよどんでいるせいか、思考もまとわりついてくる。
Slackの未読には返信すべきか、それとも既読スルーで許される空気なのか。
その判断にすら、いちいち体力を使ってしまう。最近はずっと、そんな感じだった。
仕事は嫌いではない。書いたコードがかたちになって、誰かの手に届くのはうれしい。
でも、気がつくと「自分がどう見られているか」「この仕事がどこかで"評価"されるか」を頭の片隅で意識してしまっていて、
自分自身の輪郭が、だんだん曖昧になっていく。
そんなふうにして作られた何かは、確かに実在しているのに、
手を伸ばせば抜けていく水のように、心には留まらない。
マグカップを手に取る。空っぽだった。
飲み残しのコーヒーを温め直す気にもなれず、湊は立ち上がって台所へ向かった。
足元がきしり、と鳴る。
このアパートは築年数が古く、床板の一部は軽く沈む。
都内の駅近で、ギリギリ一人暮らしできる家賃。
そういう条件の下にある静けさには、どこか頼りない湿度がある。
蛇口をひねって、コップに水を注ぐ。水音が部屋のなかに広がる。
口をつけると、少しだけ鉄の味がした。
ふと、背中に視線のような気配を感じて振り向いた。
いる。
部屋の隅に、猫がいた。
黒い。すらりとした体つき。座っているのに、どこか緊張を解いていない姿勢だった。
目が大きい。黄色にも緑にも見える、曖昧な色をしている。
数秒間、湊は動かなかった。
部屋に猫がいる。……なぜ?
自分が閉め忘れた? いや、玄関は鍵をかけたし、窓もすべて閉めていたはず。
隙間? 網戸の破れ? どこかに抜け道が?
いや、それよりまず、本当に"猫がいる"という現実を受け入れきれていない。
この静けさ、この距離感、この存在感。
現実感は薄いのに、猫の輪郭だけが妙にくっきりとしていた。
湊が一歩踏み出しても、逃げる気配はない。
ただ、ゆっくりと顔をそらして、冷蔵庫と壁のすき間を見つめはじめた。
その視線は鋭いというより、深い。
一点を見ているのに、まるで過去の出来事を思い出しているようだった。
湊は猫の隣にしゃがみこむ。
壁と冷蔵庫の間。ほんのわずかな暗がり。
埃がたまっているだけの空間。
でも、猫はそこに"何か"を見ている。
湊には、それが何かは分からない。
けれど、猫の気配があまりに静かなので、
その静けさにふれるだけで、自分の中のざわめきがすっと引いていくのを感じた。
時計の秒針が、ひときわ大きく音を立てた気がした。
部屋のなかに、意味のない時間が流れる。
何も起きない。何も変わらない。
だが、湊はその"何もない"のなかに、
しずかに何かが満ちているのを感じていた。
猫がこちらを見た。
その目には、意味も問いもなかった。
ただ"見ている"という行為だけが、そこにあった。
湊は視線を返す。
言葉は浮かばない。
けれど、何も話さないことでしか保てない、かすかな均衡のようなものがそこにはあった。
湊は立ち上がるタイミングを見失ったまま、もう一度猫の見つめる隙間に目をやった。何もない。ただの壁。
けれど、ほんの少しだけ、そこに"なにか"が存在しているふりをすることは、今の自分にとって意味がある気がした。