第五章 窓辺の哲学者
リモートワークが続いて、三ヶ月が経った。
湊は朝のスタンドアップミーティングを終えて、
Slackのステータスを「離席中」に変えた。
コーヒーを淹れに、キッチンへ向かう。
窓辺に、灰色の猫がいた。
外から、じっと部屋の中を見ている。
初めて見る猫だった。
窓を開けようとしたが、猫は動かない。
ただ、真っ直ぐにこちらを見つめている。
その目は、何かを問いかけているようでもあり、
何も求めていないようでもあった。
湊は窓を開けずに、猫と向き合った。
ガラス一枚隔てた、不思議な対話。
灰色の猫は、毎日同じ時間に現れるようになった。
朝九時半。
スタンドアップが終わる頃に、必ず窓辺にいる。
ある日、湊は思い切って窓を開けた。
猫は入ってこなかった。
ただ、少しだけ顔を近づけて、
すぐに元の位置に戻った。
「入らないのか」
猫は答えない。
窓辺に座ったまま、また外を見始めた。
まるで、そこが定位置であるかのように。
湊は仕事に戻った。
コードを書きながら、時々窓辺を見る。
猫は微動だにしない。
何時間でも、同じ姿勢でいられるようだった。
夕方、ミーティングが終わって顔を上げると、
猫はいなかった。
窓の外は、もう薄暗くなっている。
黒猫が、部屋の隅から現れた。
灰色の猫がいた窓辺に向かって歩いていく。
そして、同じように外を見始めた。
「お前も、何か見えるのか」
黒猫は振り返らない。
ただ、耳だけが、わずかに動いた。
湊は二匹の猫を思った。
灰色の猫は外から中を見て、
黒猫は中から外を見る。
同じ窓辺で、違う世界を見ている。
自分は、どちらの世界にいるのだろう。
いや、そもそも世界を見ているのだろうか。
画面ばかり見て、何も見ていないのかもしれない。
Slackの通知音が鳴った。
新しいタスクが振られている。
湊はキーボードに手を置いた。
黒猫は、まだ窓辺にいる。
明日の朝、灰色の猫はまた来るだろう。
二匹の哲学者は、言葉を交わすことなく、
それぞれの真理を見つめ続ける。
湊は、その静かな営みに、
救われているような気がした。